7月9日(金) 『生物と無生物のあいだ』

 『生物と無生物のあいだ』は、分子生物学が専門の、青山学院大学教授、福岡伸一さんの著書である。

 いかにも高校の課題図書、といった感じの書名だが、〝課題図書〞という点は、あながち間違えでは無い。

 NYにいる夫が、「面白いから、読んでみて。」と、日課Skypeで話しかけてくる。

 夫と私は、ニューヨークと東京、物理的に、行動を共にすることはできない。

 仕事が共通ではないから、仕事の話も、聞くことはできても、会話にはならない。

 そもそも、キャリアを積んでこなかった私と、会話が成立するのかと、不安になることもある。

 もちろん、夫婦だから、子どもの話や、家計の話はできる。

でも、一人の人間として、少しは知的な会話も楽しみたい。

 だから、専門書は除いて、お勧めの本は、できる限り読もう、と思っている・・・

 何とけなげな妻だろう!

 1ページめくり、プロローグから読み始める。

 「私は今、多摩川にほど近い場所に住んでいて、よく水辺を散策する。川面を吹き渡ってくる風を心地よく感じながら、陽光の反射をかわして・・・」

 この人は、生物学者なのに、なんて綺麗な文章を書くのだろう。

 〝川面を吹き渡って〞なんて、まるでユーミンの世界である。

 他にも、タンパク質とタンパク質が、くっついたり離れたりを繰り返す様子を、〝口づけ〞とか〝接吻〞という言葉で、表現したりする。

 今週は仕事も忙しかったが、あまりにも面白かったので、週末を待たずに、多少の寝不足は我慢して、一気に読み進めた。

 筆者は、文中で、「生命とは動的平衡にある流れである」と述べている。

 たとえば、久しぶりに友人に会って、「変わらないわね〜」などと、お世辞で言うが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルではすっかり入れ替わっていて、〝お変わりありまくり〞だそうだ。

 かつて私たちの一部であった原子や分子は、もうすでに私たちの内部には存在しない。

 この話を今日、職場でしたら、冗談で、依頼されたことを、忘れた時は、次回から、「その件は、以前の私の細胞が、承ったのであって、今の私は存じません」と答えよう、という話になった。

 筆者は最後に、動的な平衡が持つ、やわらかな適応力と、なめらかな復元力の大きさは、感嘆すべきで、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性を説いている。

 操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。表向き、大きく変化しないように見えても、何かが変形され、何かが損なわれる。

 介入が、生命と環境との一回性の運動を、異なる岐路へ導いたことに変わりなく、私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、なすすべはない。

 一回性の運動の事を、筆者は〝一回限りの折り紙〞と表現している。

 最後まで、なんて美しい文章なのだろう。