8月10日(月) 英語が話せたら・・・

 DVD鑑賞の合間を縫って、鈴木孝夫氏の『日本語と外国語』『日本人はなぜ英語ができないか』(共に岩波新書)を続けて読んだ。

 鈴木孝夫氏は、慶応大学SFJ(湘南藤沢キャンパス)における、語学教育の青写真を考えた人である。

 『日本語と外国語』では、日本語の特徴として、以下の二点を挙げている。

①音韻(素)数が少ないだけでなく、音節構造も簡単で、しかも制限が多いため、結果として短くて使いやすい語の数が必然的に限られてくる。

具体的には、日本語には、ア、イ、ウ、エ、オの五つの母音、十四個の違った子音があるが、子音は決して単独あるいは子音同士が互いに連続して現われることがなく、必ず母音前で一個しか用いられない(た=ta、み=miなど)。また、このような制限の中で、単語を短くすると、同音同形の物が増加する(眼、芽、女など)。

②抽象的な意味構造もつ基礎語が多く、語彙の総数が少ない。

 具体的には、「なく」の場合、人がなく場合だけでなく、鳥やけもの、そして虫のような生物がなく場合にも使え、なき方にも決まりはない。「何かしらの生物が、言語的な意味をもたない発声を行う」という、非常に抽象的な意味をもつ。英語の場合、日本語の「なく」に当たる動詞は、40を下らないとのことである。

 日本語のこのような欠点をある程度まで補っているものが、漢字(語)のもつ視覚的要素であることを指摘している。

 しかしながら、英語教育の普及により、カタカナ語が氾濫し、日本人の心理としても、これを歓迎することから(イメージがいい)、全体の流れは確実に英語(外国語)化の方向をたどっていると結んでいる。

 『日本人はなぜ英語ができないか』では、日本人が英語ができない理由を二つ挙げている。

①日本語が英語とはまったく違う系統に属する言語であるばかりでなく、日本人の宗教や世界観、そして風俗習慣をも含む文化までも、欧米人のそれとは非常に異なること。

②一般の日本人が国内の社会生活の中で、英語が話せなくて困るようなことが一切ないこと。このことは、長年にわたって英米の植民地であったために、独立後も英語を使わなければ、教育はもちろんのこと、国内の経済、行政、政治、場合によっては日常生活まで円滑に運べない国々に比べて、ある意味においては素晴らしいことである点も指摘している。

これからの日本の外国語教育のあり方について、日本が世界の数少ない経済超大国になったことを考えると、外国語を日本語に翻訳することで、情報を受信するのではなく、もっと積極的に、日本語で書かれた各種の情報を、外国語に翻訳することで、情報を発信するスタイルへ方向転換すべきであると結んでいる。

 私がこの本を読んで一番納得したことは、日本人には外国語というものに対して、強い憧れの気持ちをいだいている人が多いが、日本以外の国では、特別な目的をもっている人以外、ただ漠然と外国語ができたらいいなあ、と思う人はいないということ、まして、外国語を話せる人が羨ましいとか、偉いなどと考えることはまずない、ということが紹介されていた点である。

 まさに私もその一人で、旅行に行った時に、ペラペラしゃべることができたらいいな、くらいの気持ちでいた。

 必要に迫られないので、一向に上達しないわけである。

 青い目の恋人でもできれば話は別であるが、空想は映画の中だけにとどめておこう。