3月12日(土) 大地震が起こった時、私がしたこと

 昨日、地震が起こった時、私は職場で仕事をしていた。

 最初は、「何か揺れてない?」と同僚に話しかけ、次の瞬間、「結構大きいかも」と呟き、最後には、「ガス止めて、出口確保して」と叫び、自らガスを止め、出口に駆けつけ、ドアを開け、地震が治まるまで、押さえ続けていた。

 机の下にもぐった人、階段で様子を見ていた人、様々だった。

 一回目の地震が治まってから、ドアを長椅子で押さえ開け放し、何かあったら、直ぐに逃げられるよう、靴を履き換え、帰り支度を整えた。

 職場の環境も、最低限仕事に必要な機能だけ残して、仕事を続けることにした。同僚の一人は、ペットの猫が心配だからと早退した。

 地震直後から、仕事をしながら、何回も家族に電話連絡(夫の携帯・自宅の固定電話)を試みたが、携帯からも、職場の「災害時優先電話」から掛けても、繋がらなかった。

 とりあえず、メールを打って、返信を待ったが、返信の前に、息子と電話(自宅の固定電話)で連絡が取れた。

 息子と夫は自宅にいること、自宅は本棚の書籍が散乱した程度で、たいした被害が無かったことを確認できた。

娘は、学年末試験休み中の登校日だったので、多分学校にいるはずだが、時間が3時前だったので、もしかしたら下校途中かとも思った。

 学校のHPを開くと、学内の生徒は全員無事との掲示があった。

 暫く待って電話連絡が無ければ、テニスの練習があるとも言っていたので、多分まだ学内に残っていたはず、と推測した。

 娘の学校は、携帯電話の持ち込み禁止である。非常時には、大変困ることがはっきりしたので、次回の保護者会では、意見を述べるつもりである。

学校のHPを引き続きチェックすることにした。

 5時になってすぐに退社したが、お米が無かったことを思い出したので、スーパーに寄って、お米と2リットルボトルの飲料、ガスボンベ、即席ラーメン、パン、フルーツ、菓子類など、持てるだけのものを買って、自宅に戻った。

 玄関に入ると、「××(娘の名前)を、××(学校の名前)に迎えに行きます。5:35」とメモ書きがあった。HPに、お迎えに来た人だけ、帰宅可能の旨掲示が出たからだ。

 私は荷物だけ置いて、携帯で両方の両親に電話連絡を試みながら、自宅を一回りし、ガスの復旧もした。電話は繋がらなかった。

 私の実家は離れているので、心配ではあったが、弟夫婦が近所にいて、行き来しているので、ここはひとまず、弟夫婦に任せることにし、夫の実家に、自転車で行ってみることにした。

 出掛ける前に、娘を迎えに行っている夫に連絡をして、この旨を伝えた。娘の学校とは、結局電話連絡が取れなかったので、行ってみるしかなかった。

 京王井の頭線が止まっているため、井の頭通りの歩道は、徒歩で帰宅する人で溢れており、自転車も思ったように走れなかった。所々車道に出たりもして、先を急いだ。

 駅に電車が止まっているため、踏切は、1時間以上も閉まったままだそうで、私は押し上げて通り抜けた。

 たまたま通りがかった男の人が、押し上げるのを手伝ってくれた。棒は思ったより重かったので、とても助かった。

 夫の実家に着くと、両親は無事で、家のなかも整然としていた。既に、6時半になっていたので、無事だけ確認し、お茶だけ一杯もらって、リンゴのお土産を持たされ、帰宅した。

 帰り道、電車が止まったため、自宅に帰れず、職場に戻った旨連絡をもらった同僚に、差し入れするため、職場に立ち寄った。

 最終的には、我が家に泊まってもらうか、娘を迎えにいった夫が帰って来たら、送って行こうと思っていたが、息子さんが車で迎えに来てくれる予定ということで、様子をみることにした。

 ここで、もう一度、私の実家と弟の自宅に電話をしたが繋がらず、ようやく、弟の奥さんの携帯と繋がった、両親を含め皆無事ということで安心した。

自宅に戻ると、既に8時を回っていた。夕食の支度を始めると、程なくして3人が戻ってきた。

 メールが、一度に入ってきて(5時頃にも一回あった)おり、その中に他の同僚からのものも含まれていたが、だいぶ時間が経っており、失礼してしまった。

 地震が起きてからは、職場では冷静でいたつもりだが、後は、無我夢中だった。

 震度5強で、こんなにライフラインが混乱するのだから、東京直下型の大地震が起こったら、どんな様子になるか、想像するだけで恐ろしい。

 家族はきっと、離れ離れでいる確率の方が高い。心配でも、地震発生後暫くは、連絡不能になることは、容易に想像できる。

 幸い、子どもたちも大きくなっているので、各自、再会できる時まで、生き延びる手段を、少し考えてもらおう。

 そのうちに、子どもたちが私の心配をするようになったりして。